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 丹波マンガン記念館を訪ねて
                           石川逸子


 〇八年晩秋、『オサヒト覚え書―亡霊が語る明治維新の影』執筆のために、数奇の生涯をすごした光厳院が隠遁生活を送った丹波山国庄常照皇寺を訪ねようと周山に一泊した。宿で、付近の地図をぼんやりながめていて、あらっと驚いた。かねて機会があったら訪れてみたいとおもっていた丹波マンガン館が近くにあるではないか。
 宿の若い女主人に翌日開館しているかどうか 調べてもらって、常照皇寺見学のあと、タクシーでマンガン館へ向ったのだった。
 朝鮮人の血と汗で掘 り出されていた丹波マンガン。その労苦を後代に残したくて、マンガンを掘り出していた一人の朝鮮人が、じん肺に苦しみながらほとんど独力で館を作ってしまった、と書かれた記事は、一体いつどこで読んだのだったか。だいぶ以前のことで、出典は思い出せないながら、強く印象に残っていたのである。
 記念館の所在地は、京都府北桑田郡京北町字下中、西大谷。京都から小浜へ至る周山街道(国道162号)で、京北町役場を過ぎ、下中交差点を右折、車で四、五分。
 受付でわたされたパンフレットには、
 「丹波マンガンは、約二億年の昔、深い海の底に沈殿した。その後、海は山に変じ、人びとの利用に供されるところとなった。明治二八年頃に採掘開始、昭和五八年頃まで約九〇年間、丹波の山々から掘り出された。最盛期(第二次大戦中と昭和二五~四五年)には約三〇〇ヶ所もの鉱山が活況を呈していた。
 マンガン鉱床は、金・銀・銅や鉄の鉱床に比べてその規模が小さく、そのため大手鉱山会社は、採掘事業にはほとんど参画せず、かわって零細な企業や個人による開発にゆだねられた。」
とある。
 見学用に掘られた坑内をめぐってみる。
 ところどころに等身大の人形が置かれてあって、明治・大正・昭和と変わっていった採掘・運搬の様子がリアルにわかる仕組み。
 独力で同館を開設した故李貞鎬(リジョンホ)さんの言。
 「ここは、オレの墓や。オレたちの墓や。戦中、強制連行された朝鮮人が働かされて、そして、死んでいった。その人たち、墓がないんや。ここが墓や。“狸掘り ”っていって、人の体がようやく入るだけの穴を地面に掘っていく。そう、狸のように。穴を大きくすると落盤するんや。戦争になってからはカーバイト灯だったが、それまでは貝殻に灯した、油の小さな火を頼りに、闇の中、マンガンを掘り出すのや。重労働で、じん肺にかかっていない朝鮮人、いないで。」(『ワシらは鉱山で生きてきた』丹波マンガン記念館)
 火薬で爆破して坑道を作り、あとは見当をつけて上下左右に横道を延ばして掘る。
 削岩機などが導入されだしたのは、一九六〇年代の後半。それまではゲンノーでノミを打ち掘り進む手堀りだった。
 狸堀りといわれた穴は、高さわずか六〇㎝、巾三〇㎝、這うようにして掘るしかない。掘り出したマンガンは、七〇㎏ほどの重さなのを中腰でかつぎ、外へ運び出す。
 大砲の砲身や戦車のキャタピラーなど硬い鋼鉄を作るためには、鉄にマンガンを混ぜねばならなかったため、日中戦争以後、日本一のマンガン産地である丹波には、ざっと三〇〇のマンガン鉱山が出現、最たる労働力は、土地をもたず、ほかには暮らしのめどが立たない被差別部落民と朝鮮人であったという。日本の植民地支配により、故郷での暮らしがたちゆかなくなって、マンガン鉱山に活路を見出そうとした人たち、「募集」と称して強制的に連行されたひとたち、あるいは強制連行された場所から脱走、丹波へにげてきた人たちもいたようだ。

 記念館には、坑道見学のほかに、当時、独身の朝鮮人が暮らしていた飯場が、きちんと再現されて建てられており、マンガン、写真、道具類などが陳列してある展示館もある。
 丸太小屋の飯場は、屋根も外囲いもすべて杉の皮でおおってあるだけ。冬は、セメント袋を解いて内側に張って寒さをしのいだ。
 土間に細長いテーブルが一つあって椅子はない。食事は立ったまま食べるしかなかったとのこと。
 坑内のみならず、坑外での労働もきつかった。
 一人の朝鮮人が、マンガン三〇〇㎏をかつぎ、山道を五時間も運んでいったのだ、と。
 展示館に被差別部落の女性たちの写真があり、「一人でいっぱいかついで三時間も運んだからね、肩の皮はむけ、膝が曲がらなくなって、大便も立ってするしかなかったんですよ。」
 展示館で説明してくれたのは、(途中でわかったのだが)初代館長の李貞鎬夫人、任静子(イン・チョンジャ)さん。
 当時、水は川に下りて汲むしかなく、炊事や風呂の水を汲みに行くのは、女性たちの仕事であった。
 「結婚後、一七歳で丹波に来ました。」
 そして、おどろいたことに、今めぐってきた川端大切坑も、飯場も、展示館も、なべて家族で、作られたという。
 「はは、この床なんかもね、全部家族総出で作ってしまったんですよ。なんでも家族でやったんです。」
 さらっと明るく言われる。
 今は、李貞鎬氏の三男、李龍植(リ・リョンシク)氏が館長で、先述のパンフレットの増補版中で、次のように書いている。
 「一九五五年、鉱物は輸入自由化となり、日本のマンガン鉱山は潰れたが、その後は、じん肺という肺に石が刺さる病気が残り、部落の人など一家で三人もじん肺患者が出ているのを見ても、鉱山での就業率の高さが伺える。また、朝鮮に帰った人たちにもじん肺患者が多く出ているが、誰も救済しない。日本政府の責任はここにも残る。
 また、多くの人たちが地質・マンガン・鉱山を勉強に来られるが、私達はこれを作ろうと町に補助を求めたとき、前京北町長は『金や銀なら良いがマンガンなど誰も知らない鉱物だし見学者は来ない。また、部落や朝鮮人の働いた歴史など暗いイメージで町のイメージが悪くなる』と協力せず逆に邪魔をして妨害した。しかし、丹波高地ではマンガン鉱山は九〇年続いた基幹産業であり文化であり、朝鮮人や部落の人が働いたことは歴史の事実なのだ。
 暗いイメージを隠す、臭いものにフタと言うのではなく歴史を直視し正面から見ることこそ人権を学ぶ場になると思い、丹波マンガン館をつくった。」と。
 独力で記念館を建てた李貞鎬さん一家の執念。
 在日二世である李貞鎬さんは、三歳のとき父を盲腸で失い、母はすぐ弟を連れて帰国していったため、父母の顔を知らない。
 (力づくで連れてこられたのでなくとも、植民地支配の結果、地元で食べていけなくなって日本に渡ってきたのだから、強制連行と同じ)と考える李貞鎬さん。
 マンガン鉱石の採掘をしていた父方の伯父に引き取られ、敗戦の翌年、新制中学を卒業すると園部町の鉱山でケイ石の採鉱夫としてはたらき、四年後からは京北町のマンガン鉱山で、手堀り仕事。
 やがて自分の鉱脈をもち、五人の朝鮮人労働者を使って、ともに採掘した。
 一九六九年、新大谷鉱山、(有)白頭鉱業の誕生である。故郷の白頭山から付けた名にちがいない。
 八畳四軒の飯場に、李貞鎬夫婦、伯父夫婦、労働者五人が暮らしていた。
 「この地図を見てください」
 任静子さんが嬉しそうに手招きする。
 ガラスケースのなかに、坑内地図があって、ある箇所を指差し、
 「ここで、大きな鉱脈が見つかってね。これが見つかったときは、女は坑内に入ってはいけないんだけど、見せてやるって言われて坑内に入って見せてもらったたんです。」と。
 開館は、一九八九年九月二四日。
 それから六年後、李貞鎬さんは、じん肺による呼吸不全で死去。
 じん肺とは、長期間にわたって吸った粉じんが肺に付着、肺胞がせんい化し、肺胞への空気の出入りが悪くなる病気だ。
 いったんせんい化した肺胞は、元にもどることはなく、完治させる治療法もない。
 丹波マンガン鉱で採掘夫としてはたらいていた、じん肺患者の一人を訪ねた「京都新聞」の記者は、家族からその苦しみを聞き、次のように書いている。
 「発作がひどくなると、苦しく、うつ伏せになったまま畳の上でもがき、きりきり舞いしてころげ回る。障子もふすまもはね飛ばして暴れる。死期が迫ると、酸素テントに入れられるが、そのことを知っているため、死の恐怖にかられる。そればかりではない。じん肺は目に見えない肺が侵されているから、他人には病気とわからないし、ハンディを知ってもらえない。それだけに精神的にもつらい病気である。」(前提パンフ)
 なお、京都労働基準局で、「じん肺法」(1960・4)によるじん肺検診がおこなわれだすのは、七六年一一月。じん肺成立から一六年経っていた。それも、じん肺で夫を失い、困り果てた日吉町のD子さん(被差別部落)の必死の告発がもとで、患者同盟が結成され、マンガン鉱害としては全国ではじめてようやく補償をかちとったのだという。

見学者激減で閉館される記念館

 ここまで書いたところで、李貞鎬氏の逝去された日にちが知りたく、ひょっとしてネットでわからないかと調べてみると、ホームページがあり、読むとおどろいたことに、二〇〇八年六月二二日付けで、二代目館長の李龍植さんが、閉館の辞を述べているではないか。
 「丹波マンガン記念館は、一九八六年より開始しました。京北町の町長に第三セクターで一緒に博物館をと持ちかけましたが、丹波マンガン記念館で朝鮮人の強制連行や被差別部落の人が働いた歴史、じん肺の歴史を展示するのがわかると、「そういう歴史は暗い歴史でそういうことを出すと町のイメージが悪くなる」と断られ、京都府と旧京北町に妨害と非協力にさらされながら、個人の力によって三年の歳月をかけ、建設をし、一九八九年(平成元年)に開館しました。
 初代館長の李貞鎬が六年、二代目館長の私 李龍植が一四年運営しました。
 それから約二〇年、一度も黒字がなく、運営し続けてきました。
 開館以来一四年京都府も京北町も一度も補助金をだそうとはしませんでしたが、いよいよ財政的危機に直面したとき、人権ネットを中心とした皆様の御協力により五〇〇万円のカンパを頂きました。
しかし年間五〇〇万円の慢性的な赤字はそれからも改善せず、会員は増えることはありませんでした。毎年特別展をし、見学者の増員を図りましたが、抜本的な財政赤字を克服するには至りませんでした。
 「閉館しよう」と思うたび、「丹波マンガン記念館はわしの墓だ」という父の言葉が頭をよぎり、もう一度、もう一度と続け、家族で李貞鎬の嫁の私の母は年金まで赤字補填に使い続けてきましたが、野外の建物の老朽化、国道9号線の高速道路による162号線(マンガン記念館の前の道)の交通量の減少、母親の高齢化による新たなる人件費の増大、北朝鮮による拉致問題で日本人の強制連行の問題意識の希薄化による見学者の減少等により閉館を決意しました。」
とあり、正確な歴史を残すため、ビデオを作った。次にマンガンの正確な歴史を本にして出版しその半年後、丹波マンガン記念館を閉館する、と。
 李龍植館長は、次のようにもいう。
 「日本には日本国営の従軍慰安婦記念館も強制連行博物館もない。つまり国営の加害の博物館は全くないのである。つまり日本政府は加害の歴史を残したくないという表れに他ならない。そういう意味ではNPO丹波マンガン記念館は日本で初めて唯一の強制連行博物館になる。一〇〇万人以上の拉致、強制連行があったのにそれを残す博物館が一つしかないのは異常な事で、それも被害者の側が作った博物館しかない。
 その加害行為を博物化することが不戦への道であり、前の戦争の本当の反省であります。
 ドイツでは一〇〇〇ヶ所以上の博物館やモニュメントがドイツ人の手で作られ、戦犯はドイツ人の手で裁かれ、教科書は二〇ヶ国の周りの国と協議され出版され、日本のような加害国の検定はありません。
 補償は国籍条項はなく、被害者個人に支払われています。又、ユダヤ人の虐殺はもっと少なかったと発言すると国民扇動罪になります。
 日本ではテレビなどの公共電波で扇動発言が頻繁に発言されています。
 なぜならドイツは戦後処理を目を背けずにやってきたとする評価が高いからヨーロッパや近隣の国に受け入れられたのです。
 日本はどうでしょう。いまも韓国や中国で反日デモが起きたりアジア各地に日本の加害博物館ができています。
 謝罪や被害者救済をすることこそ国益であるということはドイツを観れば歴史が証明しています。被害者側のつくった強制連行博物館を日本の国は運営維持するための費用を一切出そうともしませんが、本当は日本国がその加害者責任を感じ、博物化し残すべきだと思いますが、二〇〇〇~三〇〇〇万人のアジア人を殺した罪を感じていない日本は加害の博物化もしようとしないし最低限度の被害者救済もしないのです。」

 閉館の辞に記されているビデオ、「マンガンに生きる朝鮮人と部落」(NPO丹波マンガン記念館)を見た。
 李龍植館長は、丹波マンガン鉱山に多く行ったといわれる、韓国・大谷面にも、朝鮮籍を韓国籍に代え、はるばる調査に出かけている。
 大谷面のひとびとが、丹波マンガン鉱山へ多く行った、第一の理由は、朝鮮総督府の土地調査事業によって先祖伝来たがやしてきた田畑を、登記手続をしなかったからと没収され、田畑を失ったためであり、第二には、むりやり連行されたためであった。
 戸籍もなく、土地の登記もなく、先祖代々耕してきた土地だったのに、東洋拓殖会社がやってきて測量し、自分の土地にしてしまったのだった。
 二年間の契約中は、ただ働きで、金が出ない。帰国するにはその後、働いてもうけるしかなかったという。
 「行くときは無料だけど、帰ってくるときはお金を出して帰らないといけなかったでしょう。」
 「毎年、冬には帰ってきて贅沢三昧したと書いたひとがいますが」の問いに、手を大きく振って否定、「ウソばかり。この村にはいない」「最近はいるけど、その時代にはいない。お金を送ってきても、少うし、少うしだけ」と。村人は、同地のサチョン飛行場建設にも連行されている。
 また同ビデオのなかで、京都在住の朴漢錫さんは語る。
 「麻も綿も米もみな日本へ持っていってしまう。出さねば差し押さえられる。稼ごうにも農業一本でほかに仕事がない。
 日本人は口で長いことしゃべったりしない。いきなり桜の棒でたたく。日本人の前ではピリッとも言われへん。
 そこへ、『日本行ったら犬でも白米食いよる』と。」
 来日した朴さんの仕事は、京都で、友禅の生地洗い。
 「雪かぶるなかで川に入って。日本人はするものなどない。」
 戦争が激化するにつれ、平和産業の友禅は閉鎖、乙種の徴用が来たため、従兄弟をたよって丹波マンガン鉱山へ。
 「労務手帳をもらうと穴に入れる。手帳がないものは、フィリピンへ四〇〇人くらい行かされた。一人も生きて帰ってこん。
 穴のなかで、真っ黒になったおかげで、生きとる。」
 同ビデオは、被差別部落のひとたちも取材している。
 田畑を持ったらいけないとの法律があったから、どんなに危険で空気が悪かろうとマンガンしか働く場所はなかった、と。
 「同和地区と朝鮮人は仲良かった」とも。
 「じん肺とわからず、結核とおもっていて、なんで結核がこんなに多いか不審に思った医者先生が、解剖してみたら、石の粉が肺にたまってヌルヌルになっとった。それでは空気吸われへん。」
 選鉱・運搬をおこなった女性たちは、金のため十三年つづけてきたといい、あまり重いものを背負ってきたため、家へ帰っても、「座布団の上へ足が上がれん。這って歩きたいほど。」
 背骨の第四と第五の間の骨が沈み、水がコップいっぱいほどもたまる、と。
 ビデオの最後は、李貞鎬さんの独白。
 「飯場のまえで、韓国から来たおばあさんが半日泣いとった。マンガン鉱へ行った夫が、そのまま帰ってこん、と。」
 「三十歳くらいになっても嫁ももらわんとうろうろしとる朝鮮人がおったが、二年間の約束で徴用され、そこからマンガンへ逃げてきたのや。強制連行やないか、言うとちがう、と怒らはる。強制連行いうたら、家や田畑から力づくでひっぱって来られることと思いこんでおるのや。」
 自らもじん肺に苦しむ李貞鎬さんが、丹波マンガン記念館の目的について、「文化を一つ残すのや」と力説しているのが印象に残る。
 ともあれ、李一家が骨身をけずって造りあげていった記念館は本年消えてしまう。
 館長が述べているように、本来なら日本がわが謝罪の意味をこめて造るべき記念館が、被害者の執念によってすでに建てられているというのに。年間五百万円の支出は、行政、企業にとって何ほどの額であろうか。
 折しも「いのちの籠」(戦争と平和を考える詩の会発行)第十一号には、〇八年暮れ、丹波マンガン記念館を訪れた古野恭代氏が「残したい文化財」という一文を寄せている。そのなかで古野氏はいう。
 「この鉱山は戦時だけでなく戦後も電池材にマンガンが使われ復興に一役買った。塵肺を生んだ負の側面を含め、マンガン鉱業史を現場で学べる希有の場所である。二十体以上の坑夫のマネキンは鉱山労働の実態をよく再現しているが、ここまで充実した展示は他にないのではないか? 更に、差別と加害の歴史を学ぶかけがえのない施設でもある。坑夫として働いた朝鮮人は故国で農地収奪に会い、日本でも苛酷な労働を強いられた。また、日本人ではあるが農地はもとより共有地さえ所有することを許されなかった被差別部落の人々が、一緒に働いていた。差別が当然のように行われていたこの鉱山の現場こそ、人権を学ぶのに最も相応しい場所だと思う。加害の歴史博物館はドイツやフランスにあると聞くが、将来アジアで他国と共存してゆくためにはそうした記念館が不可欠だろう。本来なら『加害者』が造るべき物を、『被害者』が自費で貴重な文化遺産として造ってくれたのだ。それを荒廃に任せることはできない。」
 イラクへの自衛隊派遣費は、三百七十七億円かかり、その七割の二百五十億円は陸自の「装備費」で大半は使途不明だとか。(日刊ゲンダイ・04・1・16) グアムへの米軍移転協定には二八億ドル。友好のためのわずか五百万円を国が出せないわけはないはず。残念でならない。