
-安重根遺墨・関係資料展と日韓国際平和シンポジウム-
100年ネットの京都での3月企画として、「なぜ安重根は、伊藤博文を撃ったのか?」をテーマに、安重根遺墨・関係資料展(3月26日~4月1日)と日韓国際平和シンポジウム(3月28日)を、京都市伏見区の龍谷大学深草学舎を会場に開催しました。本企画には龍谷大学、駐大阪大韓民国総領事館、龍谷大学教職員組合から後援を頂きました。ここに御礼申し上げます。
この安重根の直筆の遺墨3筆ほか関係資料は、龍谷大学が貴重図書として深草図書館特別書庫に保管しているものであり、1997年6月、岡山県笠岡市にある浄土真宗本願寺派の浄心寺から寄託を受けたものです。今回、龍谷大学および同図書館のご協力を得て、初めての一般公開を行うことができました。龍谷大学学長、浄心寺住職はじめ関係者の皆様に御礼申し上げます。
また、展示にあたり、龍谷大学図書館において1998年11月に開催されました「龍谷大学図書館特別展観」での「案内冊子」である「安重根とその時代」を、今回の展示会資料の作成にあたり転載させていただきました。龍谷大学の前図書館長の木田知生先生、この冊子を作成された当時の図書館長である木坂順一郎先生(龍谷大学名誉教授)、また執筆にあたられた職員の方々に御礼申し上げます。そして、この間、具体的な準備の過程で、龍谷大学のみなさまには、たいへんお世話になりました。改めて御礼申し上げます。
なお、この期間の展示会への参加者は約180名、シンポジウムには91名、開会式、偲ぶ会他への参加者を含めて、全体として延べ約350名の方にご参加いただきました。遠くは東京、名古屋、松江からもご参加いただき、また、毎日新聞、京都新聞、共同通信、韓国マスコミ関係者など多くの取材がありました。あらためて今回のテーマの重要性を認識することになりました。「韓国併合」100年である来年、2010年8月に向けて日韓における市民の大きなネットワークの形成を進めていきたいと考えております。
以下は本企画の報告です。
Ⅰ.安重根遺墨・関係資料展の開会式
遺墨・関係資料展初日の3月26日(木)午後5時から龍谷大学至心館パドマ内シアターで、「安重根遺墨・関係資料展開会式」を開催しました。
この日は、安重根の100周忌(99年目の命日)にあたることから、日韓および東アジアの恒久平和祈願をこめた式となり、参加者は約30名で、シアターはほぼ満席となりました。開会式会場は、龍谷大学が貴重図書として図書館金庫に慎重に保管してきた遺墨等の展示会場内にあったため、参加者は、人類の共同歴史遺産である安重根の遺墨や安重根処刑にいたる経過を示す当時の写真などを鑑賞することができました。
プログラムは、司会者をつとめた重本直利「100年ネット」事務局長(龍谷大学経営学部教授)の進行で進められました。学内でもほとんど知られていなかった遺墨の存在を早くから知って、その公開に努力してこられた三島倫八共同代表(同学部教授)による開会の辞で始まり、次いで、後援団体となって頂いた細川孝龍谷大学教職員組合委員長(同学部教授)が参加者を歓迎しました。
次に、来賓挨拶に移り、呉榮煥駐大阪韓国総領事より、この企画が持つ意義について、韓国の立場から格調高いご挨拶をいただきました。呉総領事は、遺墨等を公開し韓国への貸し出しにも協力することを約束している龍谷大学と浄心寺への感謝の言葉を述べられ、また、主催者の市民運動を高く評価して下さいました。「残念ながら、韓日において、安重根と伊藤博文に対する評価は正反対です。韓国において、伊藤博文は韓国侵略の元凶であり、安重根は豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に日本軍を打ち破った李舜臣と並ぶ二大英雄とさえ言われています」としつつ、「この展示会が過去の韓日両国間にあった、不幸な歴史に対する徹底した反省に立ち、これからの新たな100年において真の成熟した韓日友好関係を築いていく上での一つの転機となることを切に願う次第であります」と結ばれました。総領事のご挨拶は、丁重ながらも、植民地支配への反省が未だ不十分な日本人にとっては、極めて重要な視点を含む、重いものでした。
続いて、来賓の木坂順一郎名誉教授(龍谷大学元図書館長)が挨拶され、遺墨等を龍谷大学図書館が保管するようになった経緯を紹介されました。その中で強く印象に残った点を紹介します。遺墨等を岡山県の浄心寺から風呂敷に入れて運んできた龍谷大学関係者4名のうち、現在、生存者は2名であり、内1名は、木坂名誉教授であるが、もう一人は、現学校法人龍谷大学の理事長である不二川公勝氏(現西本願寺宗務総長。当時は龍谷大学事務局長)だったということです。歴史学を教えておられた木坂名誉教授は、立場を入れ代えて、相手方の立場から事象を見ることの重要性を学生に教えてきたと言われました。歴史的事象を正しく評価するためには、日本人は、韓国人の立場に立って安重根を見る必要があることを指摘された同教授のご挨拶は、感銘深いものでした。
安重根遺墨等を龍谷大学に寄託された浄心寺(岡山県笠岡)の津田雅行住職からは、来賓としてご挨拶を頂く予定でしたが、残念ながら、「ご門徒のお方の葬儀」のため、参加が出来なくなったとのことで、直前になって予定が変わりました。そこで、戸塚悦朗共同代表(龍谷大学法科大学院教授)が住職のメッセージを代読しました。メッセージの中で、津田住職は、安重根が処刑された旅順から遺墨を持ち帰ったのは、「4代前の住職・津田明海(つだ・めいかい)の三男、津田海純(つだ・かいじゅん)であります。海純は慶応元年(1865)年に出生、大正15年(1926)に往生(死去)しております。その間、本願寺派の旅順出張所に駐在し布教使、あるいは教誨司として旅順監獄で安重根と接触したものと思われます。そこで受刑者と教誨司という立場をこえて、東洋の平和をめざす安重根と人と人との人間関係が生まれ、あつい信頼のもとに遺墨を譲り受けたものと思われます」と述べられています。津田住職がメッセージの中で、「幸い、近く『龍谷ミュージアム』が開館の運びとのこと、できれば常設展示していただき、多くのみなさんの目に触れていただければと切望しております」と願っておられることは重い内容です。龍谷大学関係者が、寄託者である津田住職のご希望を実現すべく努力を継続されることを願ってやみません。
また、若原道昭学長には事前に龍谷大学を代表してのご挨拶を要請いたしましたが、当日予定されていた会合と日程が重なり、プログラムに載せることができませんでした。しかし、若原学長は、開会式の進行中に駆けつけて下さり、幸いご挨拶を頂く事ができました。若原学長の遺墨公開への熱意を象徴する、うれしい出来事でした。
当日、ご出席される予定だった小松昭夫(財)人間自然科学(HNS)研究所理事長は、直前になって、韓国に新築される予定となった新安重根紀念館の鍬入れ式に招待され、本開会式に出席できなくなりました。そこで、戸塚共同代表が、小松理事長欠席の経緯を報告しました。2009年2月22日(竹島の日)に島根で開催された同研究所主催の出版記念講演「混迷の時代、出雲から陽が昇る」(くにびきメッセ国際会議場)の第1分科会で講演した戸塚共同代表は、全体会で紹介された同研究所作成の「安重根と伊藤博文」と題するDVDを観て、歴史理解を深めたことを報告しました。次いで、参加者は、人間自然科学HNS研究所から提供を受けたDVDの上映から、「なぜ安重根は、伊藤博文を撃ったのか?」について学ぶことができました。
最後に、河村吉宏「100年ネット」運営委員長(NPO法人京都自由大学理事)の閉会の辞で式を閉じました。
Ⅱ.「安重根100周忌・偲ぶ会」報告
遺墨等展示の開会式に続いて、午後6時30分から8時30分の間、龍谷大学紫光館4階レストランで、「安重根100周忌・偲ぶ会」を開催しました。重本「100年ネット」事務局長の司会で、参加者全員が、こもごも安重根への思いを語り合い、2時間は瞬く間に過ぎ去りました。
田中宏共同代表(龍谷大学経済学部教授)は、2009年3月末日で退職されたので、「偲ぶ会」でのご挨拶が龍谷大学での研究教育活動の締めくくりとなったのではないでしょうか。田中共同代表は、長年留学生を支援する活動を継続してこられ、その経験から、「外国人留学生は、日本人に対して胸襟を開かないことを知った」と述べられました。その一例として、安重根が伊藤を撃った日の翌日に書かれた中国人留学生の日記を紹介しつつ話を進められましたが、次のことが印象に深く残りました。
留学生であった中国人が、アジア人として安重根の伊藤射殺の報に強い共感の念を抱いた。ところが、留学生も受講していた講義で教えていた日本人教員は、そのようなアジアの人々の気持ちを全く理解していなかった。そのことを、その留学生は、日本人には本音を言えなかったのであろうが、その日本人教員の講義への批判的な印象を日記に書きとどめていたという。田中教授は、伊藤博文の肖像を日本の紙幣に使用することがアジアの人々にどのような印象を与えるかについて配慮することがない日本政府の人々の思想について、批判的な視点を提供されました。
戸塚共同代表は、「100年ネット」の運動、さらに呉総領事の協力を得ることが出来たことから、初の遺墨の一般公開が実現し、そのうえ韓国貸し出しも可能になってきたことを、運動の成果として高く評価され、参加者の協力に感謝の言葉を述べられました。そして、龍谷大学教職員組合の会合で三島教授の話から遺墨の存在を知り、角岡賢一龍谷大学経営学部教授に遺墨の所在調査を依頼したこと、その調査によって図書館金庫に遺墨が保管されていることが分かり、同教授と二人で遺墨を見ることができたことなど、遺墨公開運動が始まった経緯を紹介されたうえで、今回の遺墨公開の成功を契機として、浄心寺津田住職が希望しておられる「龍谷ミュージアム」での遺墨常設展示の実現を目指して運動を継続することを提案されました。
大学の休業中で学生も教員もほとんど大学にいなかった時期でもあり、参加者数は少数に止まることが予想されたにもかかわらず、来賓5名を含む17名で、開会式参加者の半ば以上が偲ぶ会に参加し、その全員がこもごも安重根への思いを語り合うことができました。多くの有益なエピソードが語られ、龍谷大学における遺墨等の初公開を記念する、しみじみとした偲ぶ会になったことは、幸でした。
Ⅲ 安重根遺墨・関係資料展
去る3月26日(木)から4月1日(水)にかけて、龍谷大学至心館2階、パドマ・ホールにおいて安重根遺墨・関係資料展を開催しました。
全日程を通じて180名を越える多数の参加者がありました。初日の3月26日は、安重根が処刑されて100周年に当たることから、午後5時からの開会式の後、展示会関係者・参加者による安重根を偲ぶ会が催され、和やかなうちにも意義ある日韓の交流が進展しました。開会式および偲ぶ会には、呉榮煥駐大阪韓国総領事にもご参加いただき、心温まる励ましのご挨拶をいただきました。
今回展示した3点の遺墨や関係写真資料は、龍谷大学文学部の卒業生で、岡山県笠岡市にある浄土真宗本願寺派の浄心寺住職、津田康道師が大切に保管されていたもので、1997年6月に、同師より龍谷大学に寄託されたものであります。同師によれば、安重根の処刑当時、旅順で教誨師をしていた大叔父にあたる津田海純師が持ち帰ったものであるとのことです。津田海純師と安重根との関係は明らかではありませんが、おそらく安重根との接触の過程で、深い信頼を得て贈られたものだと推測されます。
遺墨は、3点とも『論語』と『中庸』から取られ、「のびのびとした達筆は彼が当時一流の知識人であったことを示している」と評価されているもので、次のとおりです。
「戒慎乎其所不賭」 君子は其の賭ざる所を戒慎す。(中庸第1章)
「敏而好學不恥下問」 敏にして學を好み下問を恥じず」(論語公冶編)
「不仁者不可以久處約」 不仁者は以って久しく約に處るべからず(論語 里仁編)
署名の下には、左手の薬指の第1関節が切断された手形が鮮やかに見て取れます。「断指同盟」という固い決意のもとに日本の侵略と戦い、独立を守り抜こうとした安重根の不屈の意志がひしひしと伝わってきます。
寄託された写真資料は85点ありますが、安重根が伊藤博文をハルビン駅で射殺した事件に関係が深いと思われるもの25点を選び展示しました。同時に、HNS研究所提供の安重根の義挙を描いたDVDを常時上映し、安重根の想いが伝わるよう配慮しました。多くの参加者から大いに感動したという感想をいただきました。
<以上報告者>
共同代表;戸塚悦朗(龍谷大学)
共同代表;三島倫八(龍谷大学)
共同代表;田中宏(元龍谷大学)
事務局長;重本直利(龍谷大学)
Ⅳ 日韓国際平和シンポジウム
3月28日に京都の龍谷大学において「日韓国際平和シンポジウム―なぜ安重根は、伊藤博文を撃ったのか?―」を開催しました。おかげさまで約100人の方がご参加くださり盛会となりました。この企画について、毎日新聞や中日新聞にも記事が掲載されたためか、遠方からの参加者が多かったのも嬉しいことでした。
開会にさいしては、100年ネットの共同代表である田中宏さんからスピーチをいただきました。田中さんは伊藤博文の肖像が載っている旧千円札を示され、当時「朝鮮半島に生まれた者・暮らす者にとって日本が伊藤博文の顔を載せた紙幣を使っていることがどれほどつらいことか」と聞かされたというエピソードを交えながら、私たちが「なぜ安重根が伊藤博文を撃ったか」を学ぶことの意義を語られました。
続いて、この企画を後援いただいた龍谷大学を代表して若原道昭学長から、同じく龍谷大学教職員組合を代表して細川孝委員長から、それぞれ御挨拶をいただき、龍谷大学が安重根の遺墨を寄託されていることから、このような日韓連帯のための企画の実現をみたことについて、お祝いと激励のお言葉をいただきました。
シンポジウムでは、安重根義士紀念館の金鎬逸(キム・ホイル)館長、法政大学の牧野英二教授、龍谷大学法科大学院の戸塚悦朗教授の3人の報告者からお話しをいただき、討論を行いました。
最初に金鎬逸さんから「安重根の夢-大韓独立と東洋平和-」と題された報告を受けました。安重根の東洋平和論は、欧米列強の侵略と収奪に対応して東洋三国が共同対処するという理論であり、それは韓国の開化論者たちが主張した中立論や日本の国粋主義者たちのアジア連帯論とは次元が違うものだったこと、そしてそれは一時代一地域を超えた地球上のすべての人類が平和に仲良く暮すことができる?想鄕を志向し、まず東洋三国である大韓帝国・中国・日本が共同体を構成して模範を見せようとしたものであり、EUの先行理論とも評価しうるものであると語られました。また、10月に新しい安重根義士紀念館ができる予定であること、ソウルの「芸術の殿堂」書芸博物館で安重根の遺墨展示会を開催する予定であることが紹介されました。
牧野英二さんは「日韓の歴史の新たな歩みのために―安重根義士と歴史の記憶の場―」との題目で安重根と牧野さん自身とを結ぶ「歴史の記憶」を呼び起こしながら、問題提起をされました。安重根の官選弁護人を務めた水野吉太郎が法政大学の出身者であり、牧野さんの研究室と同じ建物の地下に安重根の裁判記録が保存されているため、牧野さんは安重根の魂に日々呼びかけられていると感じられるのだそうです。そして、官選弁護人の水野がこの事件は韓国の刑法で裁くべきであり、その場合には無罪が妥当であること、また、かりに日本の刑法で裁くとしても、安重根の行為は国を憂えた偽りのない真心からの行為であり、殺人罪として最も軽い懲役3年が妥当であると主張していたことを紹介されました。続いて、安重根の東洋平和論、カントの永遠平和論と釈迦の思想に重なりがあることが論じられました。そして、安重根とカントの思想の共通点を確認されたうえで、私たちが他者、すなわち侵略を受けた側の立場に立ってものを考えることの大切さを静かに力強く訴えられました。
続いて戸塚悦朗さんは「安重根裁判の不法性と東洋平和」と題した報告で、国際人権法研究者の立場から、そもそも「韓国併合」に至る諸条約が不法であり、安重根の裁判そのものが不法ではないかを疑うべきであること、安重根が相当期間にわたり義軍としての軍事行動をとっていたことは明らかで、義勇軍の軍人として捕虜の扱いをすべきか裁判で審理すべきであったこと、安重根の行為は刑法上緊急やむを得ず為した「正当な行為」であると論じうることが語られました。
討論では、水野吉太郎の弁護のあり方をめぐって、その意義を高く評価する牧野さんと、弁護士としてのあり方に疑問を呈する戸塚さんとの間で、深い議論が交わされました。安重根裁判については研究すべきことがまだまだ残されているということが確認できたと思います。
また、安重根の評価については、日本による大韓帝国軍の強制的解散とその後の義民闘争をいかに評価するかが重要であり、その経過が日本では余りにも知られていないことが確認されました。日本の朝鮮植民地支配の問題を考えるときに、そこに至るまでの諸条約の不当性と合わせて、「保護条約」から「併合」に至るまでの過程を事実に即して正確に理解すること、そしてそれを広く日本の人々の常識として共有することが重要な課題であることが認識できました。きわめて有意義なシンポジウムであったと評価できると思います。
(本シンポジウムの内容については別途、記録集を作成する予定でおります。)
(文責 事務局次長・勝村誠)

シンポジウムのようす
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